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きっとシャングリラだよ

人生の食べかた【慶事に寄せて】

今日も会社に行きました。ほめてください。会社に行った皆さま、偉いぞ。

どうも、サクです。

 

端的に今回の件で思ったことの話をします。色恋沙汰の話も今後のスケジュールに関しての話題もほとんどしません。すげぇ抽象的な概念の話だけど読んでもいいぞっていう方だけお付き合いください。

 

まず全然関係ない話から入って申し訳ないんですけど、そのうち回り回って戻ってくるのでちょっとだけ耐えてください。私はいわゆる二次元畑のオタクなんですが、特に少女漫画っていうよりは少年とか青年の、アクションとかバトル、戦争ものとか、ズバリ言うと人がバンバン死んだりするようなやつが好きなんですね。身も蓋もないですが。あと暗い話や、ちまたで地獄呼ばわりされてる世界観の作品を主食に生きています。

 

だから必然的かもしれないんですけど、推しの死に目によく合います。その率はわりと高く、死臭がする男しか愛せないんじゃないかという疑惑もあるレベルなんですが、やっぱりめちゃくちゃ悲しいし辛いわけですよ。当たり前だけども。

 

でもなんでそんな人がバンバン死ぬみたいなフィクションを読んだり視聴したりしてるかって、そうやって悲しんだり辛かったり推しのために憤ったり、そうやって心をめちゃくちゃにするのが面白いからなわけです。二人は幸せに暮らしました、ハッピー!とかお腹抱えて笑えるギャグとか、うるわしい愛や友情や感動的なもの、そういうのだけがエンターテインメントじゃなくて、モヤモヤすること、納得がいかないと思うこと、胸が痛むこと、邪悪、そういうもので心を動かすのもまた一つのエンターテイメントだと思うんです。

 

だから私は自分の推しが死んだり苦しんだりすると、めちゃくちゃ悲しいし苦しいけど、同時にそれもまた彼を愛する醍醐味だと思うし、その最期の素晴らしさをひたすら読み返したり、回想したりします。

 

はっきり言って、推しの死で遊んでいます。楽しんじゃってるわけです。つらいけど。涙を流しながら、でもそれを楽しみに読んでるわけです。このフィールドではそれが許されています。それはフィクションだし、さらに一応は作者もなんらか(それは物語の面白さや盛り上がりや、または展開の都合)のために彼の死を用意しているので、楽しみ方として完全に間違っているとは言えないわけです。ただ、おなじ享受者の中にはつらい!もうこの話は読まない!もしくは私の推しの死を面白がるなんて許せない!という受け止め方をする人もいるので、そういう人をTPO的に思いやるのは忘れないようにしたいよな、と思いながら推しを玩具にしているわけです。

 

翻って、3次元の推したちについて考える。こういう話題についてでたいてい「彼の人生だから」みたいな定型句が出てくるし言いたくなるけど、そこで止まらずに考えてみると、そもそもこの国のアイドルというものが、人生を切り売りする商法を取っているのではないか?私はそれを享受して推しの人生で遊んできたのではないか?という疑問にぶち当たります。それが良いとか悪いとか正しいとか間違っているとか置いておいて、事実として。システムとして。

 

そんなことない!私は違う!という人がいたら本当に?ってちゃんと胸に手を当てて考えてもらいたいんですけど。人の顔の肢体の造形にコメントさせて、収録外でさえメイキングやオフショットという形で売って、私生活や思想を尋ねて文字にして、交友関係を公開させて、それを何年も何年も繰り返させて。チームによっては身体的接触も含む。属人性が高く代替が効かない。どう考えたって「彼らの生む成果物を売っています」っていうスタイルのビジネスではないですよね。彼らそのものを売っている。

 

例えるならハンバーガー屋に行ってハンバーガーを手で掴んで食べようとしたら「うわ、あいつ手づかみで物食ってるんだけどwwww」って笑われるみたいなもので、たとえ食べ物を手づかみで食べるのが普通はルール違反だろうと、ナイフとフォークで食べたほうが衛生的に良かったとしても、逆に手で食べるのが義務付けられているわけでないにしても、もしも店が手で食べられる仕様で販売しているのならそれを笑うのはナンセンスだろっていう話ですよ。ハンバーガーのより良い食べ方は何かってのはそれとは全く別の場所で議論すれば良いことであって、とやかく言われる筋合いはないってことです。

 

で、お前はどうなの?って聞かれたら、私は正直に、はい、私は推しの人生を消費していますと答えるでしょう。私は推しの顔が好きで、歌やダンスや演技が好きで、ちょっとした仕草が好きで、言葉が好きで、そこから見える思想が好きで、性格が好きです。嗜好が好きです。挫折や病も含め、生まれてから今までのストーリーが好きです。身長とか体重、出身地や血液型なんかのプロフィールも好きです。彼を取り巻く人間関係も大好き。これはもうごまかしようのない事実です。私は彼の人生を好き勝手に楽しんでいる。おもちゃにしている。

 

そしてそれらは、別に賛同やハッピーとはイコールではなくて、ここは自分と考え方が違うなと思うところであったり、「そういうとこだぞ」と言いたくなってしまったりするところも含んでいたりするのですが、それでモヤついたり、一緒に悲しんだり、心中を慮ってしんどくなったりすることも私は楽しんでいるのです。

 

アイドルというのは、少なくとも現代の今この時代では、「人生で遊ぶことが一定程度許されている人間」と定義されうるのかもしれません。例えば隣の家の人や職場の同僚なんかと比べたら確実にそうです。商業的である以上、市井の人をネットでリンチしたりする「遊び」よりは健全だとは思います。「一定程度」がどのぐらいなのかは見解が分かれるとは思いますが。

 

今回のことで私が思ったのは、自分が推しの命で遊んでいることを忘れないようにしよう、というのがひとつ。それから、私が推しのことで悲しんだり、寂しくなったり、悩んだり、しんどいな、と思ったりすることも全て推しがくれたエンターテイメントであるということでした。例えば推しが自分の人生で直面していることに対して悲しい、と思い、その様子を見た私が同様に悲しいな、と思ったとしても、その2つの重さは全然等しくなんかなくて、どうあがいたって私にとってそれは自分の日常を彩るコンテンツにすぎないのです。

 

だからせめて、目を背けないでいたいなと思いました。あちらが人生を投げ出してくれて、それで一度遊んでしまっているのだから、こちらも性根を据えて消費しきらなければならない。今から遊ぶのを止めるのは無理です。申し訳ないけれど、これは自分の弱さだけれど、それはできない。それならせめて、いただきますを忘れず残さず食べてごちそうさまを言うように、真面目に誠実に自分が消費しているものと向き合いたい。その過程がちょっと苦くても辛くても、どうせそれもエンターテイメントです。全力で味わわなければ失礼だ。推しが原因で自分に沸き起こる感情を、乱暴にスルーせずちゃんとひとつひとつ見つめたい。

 

それだけ自覚できていれば、なんというか、間違わない気がするんですよね。ここで言う「間違う」っていうのは、自分のこころが自分で手に負えなくなることです。自分が何をしているか、それから自分の感情の重大さやサイズ感。それを見誤らなければ、たぶん後悔しないし、人も自分も傷つけたり恨んだりする羽目にはならないと思う。

 

あちらをどうこうすることができない以上、何かの対処ができるのは自分に対してだけです。以上が今回のことで私が私に行ったアップデート内容です。こんなことを綴っているのも、私なりの彼らの消費法なのでしょう。楽しんでます。自分の人生だけ生きてたらなかなか味わえないですよ、こんな気持ち。

 

あえて露悪的に言うのなら、毒を食らわば皿まで、というような気持ちですが、これからも、お金はちゃんと払います、ルールを守って、人に迷惑をかけず、めいいっぱい楽しみ尽くしますので、どうかあなた方が幸福でいられる範囲内で、あなた方で遊ぶことを許してください。何卒、宜しくお願いします。

 

以上、長ったらしい懺悔でした。ご清聴ありがとうございました。