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きっとシャングリラだよ

【5×20】宝石箱が閉まらない【MV感想】

※2021年のことを語ります。そういう気分じゃないですという方はバックをお願いいたします。

 

 

ご無沙汰しております。サクです。

みんなー!!5×20ベスト聴いてるーーー???ミリオンおめでとうーーーーー!!!イェーーーーーイ!!!!

 

普段いやいやアルバム曲に名曲があるんじゃん?とかスカしてみてる私ですが、でもアレですね、シングル曲ってよっしゃあこの曲でドカンと一発狙うぜ!みたいなテンションと気合で作られてるだけあって、やっぱり“イイ”よね……しかも嵐の、国民的アイドルのシングルなんて国民的ヒット曲候補として世に送り出されてるわけじゃん?そんな気合の塊を延々と耳から叩き込まれてるわけだから否応なしにアガるのは間違いないわけです。最高。

 

そんでもって、私は改めて、自分はこれから1年半(もう1年半です)どういう心持ちで生きるべきか……何を考え何をするべきか……そんなことを日々考えているわけです。シャカシャカとベストアルバムを聴きながら。考えずにはいられないわけです。だって64曲目には5×20が来てしまうから。to be, or not to be……

 

人間は自分の力ではどうにもならない、受け入れがたい状況を迎えたときにいろいろと「自分を守る」行動に出ます。ちゃんとした言葉で言うと防衛機制と呼びます。

認めないというのもその一つです。別のものに熱中するのもまた一つの方法です。そして何かしら理由をつけて納得することもできます。それは別に必ずしも真実である必要はないと思います。あの子は千の風になってこの大きな空を吹き渡っているんだわ……ということでそれでよければそれで良いのです。理不尽に人を貶めることさえしなければ。(ダメな例:こんな悪いことが起きたのは○○のせいなんだわ!的なやつ)

 

そんで、私はあれからずぅっと、自分の中の落としどころというか、そういう自分をあやしてくれる安心毛布のような「理由」をできればたくさん探していこうと考えてきました。正解は彼らの言うことの中にしかないので、その上でです。全ては創作です。

 ベストアルバムを聴きながら、私がああ、これは一つの「理由」といえるな、と思ったことがあります。

それは『「青春」が敗北することがあってはならないから』。

 

嵐の曲って、もちろんこれはシングルに限ったことではなく、その上タイアップをつけるスタイルでなおかつ自身で作詞していないことを承知の上でですけれど、「今!!!!」「ここ!!!!」の歌が多いと思うんです。

 

永遠や将来や社会のことは置いといて、今を見ろ!目の前のことを見ろ!!それがはかなく過ぎ去っていくとしても!消えてしまうものだとしても!!というスタイル。

なぜなら、長い目で、俯瞰で見たとき、その歌が歌われている世界は「悲惨な時代」だからです。

 

「長い目で見てる大人たちは今を悲惨な時代だって言うけど、そこで今の瞬間を生きている俺たちを見てくれ」

私はメンバーのちょうど10コ下にあたる、物心ついた時には「悲惨な時代」という世代ですが、その感覚ってめちゃくちゃ肌感に近い。ゆとり教育終末期の世代。でも個人単位の、一瞬の輪切りとして見たら俺の学生時代はいつだってサイコーだったぞ!勝手に憐れむんじゃねぇ!

そうやって、彼らは「今!!!!」「ここ!!!!」を歌ってきた。ここで大事なことは、長い目で見たときに苦しみがあるこの世界の存在は決して否定しないということです。「この星の上に生まれてきたこと、もう後悔しないように勇気をあげる」。私が嵐の歌詞グランプリがあったら上位に入れたいフレーズですが、この曲は既にこの星に生まれたことを後悔したことがある人に贈られているんですよね。ここは偽りだらけの浮世なので……

 

私はその、「今!!!」「ここ!!!!」で生きられる期間のことを「青春」と呼んでいます。良い意味での狭さみたいなもの。青春の悲しい標本のことを以前書きましたが、本質は一緒で、同じ若さのポジティブな面の標本が嵐の楽曲であるわけです。「嵐は私の青春!」というのは時期的な意味でもあり、概念的な意味でもあるよなぁと思います。

そして、その青春と呼ばれる期間は、終わることが大前提にあります。「例え今だけと分かっていても」と、終わりすらもコンセプトとして内在していた人々なわけです。しかし、嵐はいつまでもそれを生み出し続けた。「このキラキラした一瞬って終わっちゃうんだよなぁ~」という、終わってしまうことの悲しみまで含ませて、それをつくり続けた。だから人はそこに憧れる。自分自身の青春が終わりを迎えてしまっても、5人を見ればまだそこにあるのだと思える。いつだって彼らが歌えばたちまちスティル・セブンティーンみたいなところがある。

 

同時に、青春は「綺麗ごと」の時代でもある。世の中は競争、人を蹴落としてこそ一人前、嘘も方便、嫉妬や打算、裏切り裏切られ。大人になるのなら知らなければならないと言われる汚いそれらに抵抗していられる時間でもあります。仲が良いことは素晴らしい。恋は美しい。信じることが全て。

そういうものを意識的にしろ無意識的にしろ内包してしまっている人々が、雑に不用意に終わるということは難しい。というか、あんまり許されない。青春はこの辛気臭い世の中に敗北するわけにはいかないのです。

 

極論で例えるなら、セックス&ドラッグ&ロックンロールを歌う人がそういうもので身を持ち崩して消えたとしたら(法に触れてるのはひとまず置いておいて)それはそれでふさわしい終わりだと言えるでしょう。それはそれで一貫しているから。

それならキラキラした青春の体現者としての生を全うするにはどうしたらいいのか。「あぁ、あんな頃があったなぁ」と宝箱の蓋を開けてそれだけで元気をもらえるような、そういう存在として固定されなければならない。例えば「仲良しは素晴らしいこと」とか、そういう綺麗ごとを踏みにじるような終わり方はできないわけです。

 

翔くんが「宝石箱」という言い方をするのはよくわかります。そもそもあの人たちの概念が、そういった類のものだったのだと思います。自分にはなくなったものが、世界からなくなったものが、その箱をのぞけば確かに見つかるような。

 

5×20をベストを手にして歌詞を見ながら改めて聞いた最初の感想が、「これは幸福な世界の終わりに流れる歌だ」というものだったんですけど、「ちゃんと終わる」ということが、筋を通すためには必要なことでもあったのかなぁと、ベストを聞いてそんなことを思いました。美しい世界の終わりには美しい歌が流れなければならない。

 

 

と、そんなことを思って、理由を見つけて、一人切ないけれどそれなりに納得し前向きにハピネスな気分でしみじみとでき……たらよかったんですけどぉ!!

 

我々の手元には!!MVという凶器があるのでぇ!!!

 

 これが落ち着いていられるか!遊びじゃねぇんだ!心が千々に乱れすぎる!誰か強めの酒を!!

みんなアレを正気で乗り越えたんですか?すごかったですね……すごい……

 

別に単純に悲しいとか寂しいとかじゃない。それだったらもっと話が楽です。ただただ円盤を封印すればよいので。

個人的な感覚を伝えたいがために、そして自分が冷静さを取り戻すために必死に理屈をこねるんですけど、オタクが簡単に会えたりしない推しに対して持ついわゆる愛って分離すると

1.恋人や家族、息子やペットなどに向けるものと同じ愛

2.推しの人生や生き様をフィクションとして共感する愛

3.歌や踊り、話やビジュアルなど推しが生み出す成果物への愛

っていうあたりに分けられて、それをみんな1:1:2とか3:2:1とか配合しながら持ってるっていう感じだと私は思っているんですよね。その差でいろんな見解の相違が出てくるんだと思うんですけど。

 

私、自分が比較的2が強いオタクであるという自覚があったんですよ。二次元ジャンル出身なのもあるけど、この一大叙事詩を見ていたい!という欲求が大きい。「推しがいない世界なんて耐えられないから推しより先に死にたい」が1の愛強めな人なら、私は「推しの弔辞を誰が読むのかを見届けてから死にたい」というタイプなので……

 

だからこそショックが大きいのかもしれないな。自分自身に対して。

 

このブログで2回目の登場だな。私、映画「ボヘミアン・ラプソディ」が大好きなんですけど、それは私がクイーンとフレディという推しに対して2の愛が強いからこそ成立しているものであると思うんですよ。あの映画は世間でもめっちゃウケました。でも、それでも、たぶん彼らを推している人の中にはこんなの見たくないって思う人もいたんだろうな。

 

5×20のMVは最高傑作だと思っています。ドキュメンタリーとして。フィクションとして。あまりにもよくできていた。最高でした。

だからこそ気づいてしまった。私には、まだ嵐を物語としてだけ捉えるということはできない。あれをボヘミアン・ラプソディのように見ることはできない。

 

そっか……私……嵐のこと好きなんだな……

 

心の中で、こんな最高のエンターテイメントはない、そもそもコンセプトが良い、さすが演技派俳優を5人も揃えてきたね、ほらここの表情なんて完璧じゃないか、選ぶリハ風景がいちいち良いところを切り取るねぇ、最後の無音が素晴らしい、などと絶賛する私と、ねぇそんな顔しないでよお願いします、とすがりつく私が大乱闘スマッシュブラザーズなんですよ。キッツいよ。

 

それでも。このタイミングでこういうスタイルのものを出してきたっていうことは、あちらも本気で最後までフィクションを、エンタメとしての生を全うする気でいるんだなぁ、とも思う。

 

ついていきたい。2020年が終わるまでに私にできる準備は、ボヘミアン・ラプソディの心境にまで自分を持っていくことなのかもしれません。そんなことできるかなぁ。でも、それができない自分も、それはそれで、そんなに嫌いではなかったりするのです。